昭和五十六年一月十八日 朝の御理解
御理解第二十九節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
長う苦労しているから散らぬ。又は散ってもそれが実になり徳になる。その辛抱の土台というものがあって、そこにうち立てられた信心でなからなければ駄目だと、こういう訳ね。
昨日は合楽会でございましたが、先生方も十人ばかり参加しとりました。中で秋山誠二先生が発表しとりましたが、昨日何か、美枝先生の方が体が悪くて、一日二日休んでおります。昨日誠二先生に言う事が、しきりに甘い物が欲しいと。時に誠二先生が、まあ家内に言うておる事がです、俺達が結婚する時に、親先生にお書下げ頂いたものがあろうが。それは「辛抱する事が一番大切」と、書いて頂いたじゃないかと。先日ビリグイの末永先生の手紙を読んだばかりじゃないか。「少しお前は辛抱力を作らにゃ」と、言うたち。そして御祈念に出てから二階に上がったげにゃ、手ばこうやってから(両手を広げて)盛り盛り力が湧いてきた。明日から頑張りますと言うて、まあ言うたという話をしておりました。
本当に、その先日から信心の稽古と、実に簡単なお言葉ですけれども、三代金光様の、あのお言葉を見らして頂くという事が、こりゃ私にとって非常に、何時の場合でも、その色紙を見せて頂くたんびんに、今自分は信心の稽古に取り組んでおるかどうかと、苦しい事があったりきつい事があったりする。きつい事苦しい事を通して信心の稽古が果たして出来ておるかと思わせてもらうと、この簡単なお言葉が、私共、私の信心を支えておるといったようなお話を聞いたが、私共も、いわゆる先生から「辛抱する事が一番大切」と、只それだけだけれども、こんなに支えになっておるという発表でした。
そこでです、そりゃ本当にいうならば苦しい事だけを思うたら泣きたい程辛抱しかぬるごとあろうけれども、ここはいうならば新婚の一番楽しい時でもありますから、夫婦してその修行に取り組んでいくという事がもう次の瞬間には楽しいもの、生き生きとしたものになっておる。ありゃどなたのお言葉でしたでしょうか「二人で歩く道は疲れぬ」ねえ。二人で勿論仲の良い人同志が歩くという事でしょう。いやもっと言うと恋愛関係にある人が二人という事かもしれません。もう道の遠いとか寒いとか辛いとかいうような事は問題じゃない程に楽しい。いわゆる疲れない。苦しいと思わない。二人が心を合わせて修行させて頂いておると、それが仲良う修行させて頂くという事は、もうその苦しい事も、又、尊いものであり有難いものであるという訳です。
折角なら、だからいうならここでは「同行二人」と言ったような言葉があります。いわゆる「我神と共にあり」という信心なんです。只神様がいつも私は守って下さっているんだと。いつも神様は私に付いておって下さるんだという観念的な上に分かっただけではなくて、どうでしょう。今も言うように神様と二人、只今神様と恋愛中といったようなね、信心になったら有難い。
若先生が学院に修行中の時分に手紙によこしました。大体規則の上では朝は抜けがけ的なお参りは許されないのですけれども、皆が出る前に、朝奥城に毎日出らして頂いて、もう奥城で御祈念をするのが楽しみ。只今教祖様と恋愛中といったような手紙をよこしておった事がございましたが。
昨日合楽会で大和さんが発表しておられました。今毎日人参のくけがあっておるそうです。そうですね、ビニ-ルの中でしょうか。一日で五十メ-トル位しか進まないというんですね。それでも、もう本当にこれは本当に有難い事なんですけれども、その一日五十メ-トル余りの人参くけをしながら、それこそ神様とお話し合いをしながら御用させて頂いておりますが、本当にこれが神様と恋愛中だろうというのだろうという発表をなさいました。もう神様とお話ししながらずうっとその一日、その同じ仕事をね、しかも一日かかって五十メ-トル位しか進めない所を、その御用させて頂き乍ら、もう有難うして有難うしてこたえんというお話でした。
ここには、もう辛抱という言葉すらいらないような感じがしますねえ。確かに二人で歩く道は疲れない。桜の花の信心より梅の花の信心をせよと仰せられるのは、そういうような事じゃないでしょうか。それは、やはりそこまではいかん。それこそ三代金光様じゃないけれども、「泣く泣く辛抱しいしいに」という信心を信心の基盤として、そしてその辛抱する事が有難くて有難くてという事になって、それこそ欲しいものもなくなり、思う事もなくなり、いうなら我情も取れ我欲も取れ、只有難うして有難うしてという事になるのじゃないでしょうか。
信心ちゃ辛いもの苦しいもの、とてもこげな辛抱が出来るもんかという事の中に、その辛抱する事が有難い楽しいものという事に信心が成長してまいります。そういういうなら心の状態を、いわゆる桜の花の信心ではとても頂けないぞ。梅の花の信心によって、初めて頂けるんだぞ。おかげを頂くだけではない。桜の花の信心がおかげを頂くという信心なら、梅の花の信心はどこまでも信心辛抱の徳を受ける信心だという事を教えておられるんだと思いますね。どうぞ。